LOGIN午前零時へ変わる直前、澪のスマートフォンと受話器のない公衆電話はほとんど同時に鳴り始めた。
相馬透と表示された画面を握ったまま、澪は電話ボックスの中にある黒い電話機を見つめる。
最初の三回は出ず、四回目だけ必ず出ろという澄花の指示が、どちらの電話を意味していたのかまでは書かれていなかった。
けれど常世荘の祭壇から現れた黒い受話器が、この電話機から十三年前に失われたものだと分かっている以上、答えは目の前にあるように思えた。
「戻すのか」
蓮司が証拠袋を持ったまま訊いた。
澪が頷くと、朔は公衆電話の内部へ新たな電流が流れていないか確認し、美月は橋の周囲へ目を配る。
山林に隠された装置からベルを鳴らせる仕掛けは見つけたが、受話器を接続したとき何が起きるかまでは分からない。
それでも四回目の着信が終われば、相手が次の機会を与える保証はなかった。
蓮司は手袋をつけ、黒い受話器を袋から取り出した。
十三年前に引きちぎられたコードの断面と、電話機から垂れ下がる接続部は不自然なほどぴたりと合った。
完全に断線しているため本来なら通話回路は成立しないはずだが、二つを近づけた瞬間、電話機のベルが止まり、代わりに受話器の内部から小さな電子音が一度だけ鳴った。
「つながってない」
朔が接続部を見た。
「物理的には切れたままだ」
「それでも出る」
澪は受話器を取った。
耳へ押し当てると、最初はざらついた雑音しか聞こえない。
次に、風が細い隙間を通り抜ける音と、水の流れる低い響きが重なった。
「もしもし」
返事はない。
「透?」
橋の下を流れる川の音と、受話器の奥から聞こえる水音が奇妙に重なった。
ほんのわずかに時間がずれており、同じ場所の音を別の位置から聞いているようでもある。
澪は耳を澄ませた。
『澪』
心臓が強く脈打った。
相馬透の声。
七刻女学校の放送室で最後に聞いたものと同じ、少し低く、息を深く吸わずに話す癖のある声だった。
常世荘へかかってきた電話よりも近く、録音を再生しているような平坦さはない。
「透なの?」
『そう』
「本当に?」
『そうだよ』
答える間が自然だった。
澪が問い終えるより先に用意されていた音声を流しているのではなく、こちらの言葉を聞いてから返しているように思える。
朔は澪の横から受話器へ向けて録音機を近づけ、蓮司は山林側の無線中継器へ接続が発生していないか端末で確認した。
「どこにいるの?」
透は答えなかった。
「透、聞こえてる?」
『聞こえてる』
「じゃあ、どこ?」
数秒の沈黙。
『橋の下』
蓮司と朔が同時に動いた。
蓮司は欄干へ走り、朔は強力な懐中電灯を持って橋の下へ続く斜面へ光を向ける。
美月と悠斗も後へ続いたが、奈々香だけは澪のそばを離れず、電話ボックスの外から橋と澪を交互に見ていた。
斜面には濡れた枯れ葉と低木が密集し、その奥に細い獣道のような下り道がある。
川原まで十数メートルほど高低差があり、夜間に足を滑らせれば簡単には戻れない。
ライトを振っても、人影はすぐには見つからなかった。
「透、生きてるの?」
澪は訊いた。
返事が遅れた。
『分からない』
その一言に、背中が冷えた。
「何が分からないの」
『生きてるかどうか』
「今、話してるじゃない」
『目も開いてる』
透の声は落ち着いている。
だからこそ、内容だけが異常に聞こえた。
『話せる。聞こえる。でも、自分の体がどこにあるか分からない』
「どういう意味?」
『手を動かしても、動いた感じがしない。足もないみたいだ。なのに歩いた記憶はある』
「怪我してるの?」
『分からない』
澪は放送室の床に横たわった透の首を思い出した。
磁気テープが深く食い込み、美月が何度呼んでも反応しなかった。
あの身体こそ透自身だったはずなのに、電話の向こうにいる透は自分の肉体がどこにあるか分からないと言っている。
受話器の奥で、突然機械音が鳴った。
ぎゅる、と磁気テープを高速で巻き戻すような音。
透の呼吸が途切れる。
「透?」
『澪』
声が低くなった。
『俺を探すな』
「でも橋の下にいるんでしょ?」
『いる』
「だったら――」
『でも、俺じゃないのもいる』
澪の指が受話器へ食い込んだ。
「何がいるの?」
『俺と同じ顔』
雑音が強くなった。
『俺と同じ声。俺と同じ服。あれが先に見つかったら――』
言葉が途切れる。
その瞬間。
「澪!」
橋の下から声がした。
電話越しではない。
夜気を震わせて、はっきり耳へ届いた。
澪は受話器を持ったまま電話ボックスを飛び出した。
奈々香も後を追い、六人が欄干へ集まる。
朔の懐中電灯が斜面を滑り、草を照らし、川原へ落ちた。
一人の男が立っていた。
相馬透だった。
澪の喉が詰まる。
七刻女学校へ入った夜と同じ黒いジャケット。
灰色のシャツ。
濃いパンツ。
首元には、磁気テープが巻きついていた位置に黒紫色の痕が一周している。
靴は履いておらず、裸足の足首まで川の水に濡れていた。
「透……」
河原の男が顔を上げた。
ライトが目へ入っても眩しそうにしない。
顔色は青白く、髪から水が落ちている。
それでも間違えるはずのない顔だった。
「助けて」
現実の透が言った。
美月が欄干から身を乗り出す。
「相馬!」
「寒い」
透は両腕を自分の身体へ回した。
「ここから出られない」
「待って。今行く」
美月は救急鞄を背負い直し、斜面へ下りようとした。
死んだはずだという判断より先に、目の前で助けを求めている人間へ身体が動いていた。
悠斗も足場を照らし、蓮司が安全な下り口を探す。
澪の手にある受話器から、激しい雑音が鳴った。
『触るな!』
電話越しの透が叫んだ。
美月の足が止まる。
ほぼ同時に。
「触るな!」
河原にいる透も叫んだ。
同じ声。
同じ高さ。
同じ息継ぎ。
一文字のずれもなく、二つの声が完全に重なった。
六人は動けなかった。
河原の透は怯えた顔で自分の両腕を抱き、受話器の中の透は荒い呼吸を続けている。
どちらが先に喋ったのかさえ判別できないほど、発声の瞬間は一致していた。
「透、どっちなの」
澪が訊いた。
河原の透が口を開く。
『分からない』
受話器からも同時に答えが聞こえた。
現実の口の動きと、電話の声が完全に一致している。
「澪」
河原の透が一歩前へ出る。
裸足が浅い水へ入り、波紋が広がった。
「帰りたい」
澪は欄干を握った。
八年前から何度も聞いた友人の声だった。
機材について話すときの淡々とした調子も、困ったときに眉を僅かに寄せる癖も、本人そのものに見える。
もし生きていたなら助けたい。
もし怪我をしているなら、美月へ診てもらわなければならない。
けれど、透自身が言った。
触るな。
「そこで待って」
美月が震える声を抑えた。
「こっちから行く。でも、あなたには触れない。自分で斜面まで歩ける?」
「無理」
「どうして?」
河原の透は自分の足元を見た。
「ここから出ると、俺じゃなくなる」
奈々香が小さく息を吸う。
朔は透へライトを固定したまま、別のカメラで河原全体を撮影していた。
画面上にも透は映っている。
七刻女学校で遺体の顔だけがノイズに覆われたときとは違い、今度は輪郭も服も表情も鮮明だった。
「透」
朔が呼ぶ。
「俺が誰か分かるか」
「神代」
「八年前、俺とお前だけが使った識別音の周波数は?」
透はすぐに答えた。
数字は澪には意味が分からなかったが、朔の表情が変わった。
「合ってる?」
悠斗が訊く。
「ああ」
「じゃあ本人じゃないか」
「その情報を持ってる人間は、透だけじゃない」
朔は短く返した。
七刻女学校の音源を持つ人物、透の機材や記録へアクセスした人物なら知る方法はある。
見た目と声だけで本人と断定するなという意味だった。
そのとき、電話ボックスの内部で照明が消えた。
続いて橋の街灯が一つずつ落ちる。
朔の懐中電灯まで一瞬だけ暗くなった。
「電源落ちた!」
悠斗が叫ぶ。
完全な闇は一秒にも満たなかった。
非常用の手持ちライトが再び点く。
川原へ光を向ける。
透はいなかった。
「透!」
澪が身を乗り出す。
さっきまで男が立っていた浅瀬には、足跡らしい水の乱れだけが残っている。
上流にも下流にも人影はなく、走って逃げられる距離ではなかった。
美月と蓮司が安全を確認しながら斜面を下り、朔と悠斗も続いた。
澪と奈々香は橋上に残り、四人のライトが川原を往復するのを見守る。
数分もしないうちに、美月が何かを見つけてしゃがみ込んだ。
「ある」
河原の石の間に、黒いヘッドフォンが落ちていた。
透が普段使っていたものだった。
片側のイヤーパッドに小さな裂け目があり、ケーブルの根元へ白いテープが巻かれている。
七刻女学校へ持ち込んだ機材写真にも同じ補修跡が残っていた。
美月は触れず、写真だけ撮った。
「人はいない」
蓮司が周囲を照らす。
川原には濡れた裸足の跡が数歩分あるが、途中で突然途切れている。
水へ入った形跡も、斜面へ戻った痕跡もない。
澪は受話器を耳へ戻した。
「透?」
通話は切れていた。
無音。
「聞こえる?」
返事はない。
すると、受話器の奥で短い電子音が鳴った。
女性の声が流れる。
感情のない、機械的な読み上げ音声だった。
『相馬透』
澪は息を止める。
『死亡時刻、午前零時十三分』
美月が河原から腕時計を見た。
その表情が凍りついた。
「何?」
悠斗が訊く。
美月はすぐに答えなかった。
七刻女学校の放送室へ辿り着いた夜、透の死亡を確認した時刻を自分の医療記録用メモへ残していた。
警察にも同じ時刻を伝えている。
「午前零時十三分」
美月の声が掠れた。
「七刻女学校で、私が透の死亡を確認した時刻」
十三分。
澪は時計を見る。
現在時刻は午前零時十二分だった。
まだ一分早い。
「でも、今は十二分」
奈々香が言った。
その瞬間、受話器の中でカセットテープが回る音が始まった。
巻き戻しではなく、古い録音機が再生へ切り替わるときの低い機械音だった。
澪のスマートフォンの時計が午前零時十三分へ変わる。
同時に橋の下から、磁気テープが床を引きずられるような音が聞こえた。
美月がライトを向ける。
透のヘッドフォンの横に、さっきまでなかった黒い磁気テープが一本、濡れた石の上をゆっくり這っていた。
午前二時五十分。 美月が自分へ告げられた死亡予定時刻を生きて越えてから二十分余り、六人は旧道脇の開けた場所で次の動きを決めかねていた。 奈々香の午前三時十三分まではまだ時間があるが、園村香苗を模した人形、偽造された薬剤、切断寸前のブレーキ配管と、罠は一つずつ見つけても終わる気配がない。 さらに美月へかかってきた声は、高校時代の澄花しか使わなかった言葉まで知っていた。 犯人が現在の行動だけではなく、八年前の七人の私的な記憶にまで入り込んでいるという感覚が、眠気より重く全員の身体へまとわりついていた。 悠斗は橋の欄干近くで煙草へ火をつけ、苛立ったように一度深く吸い込んだ。 警察への連絡は妨害されたままで、車を動かすことにも警戒しなければならず、何かを触れば罠かもしれない一方で、何もしなければ別の仕掛けを見落とす。 その窮屈さに耐えかねたように煙を吐いた瞬間、彼のスマートフォンが上着のポケットで鳴った。 画面へ表示された名前を確認した悠斗は、露骨に顔をしかめた。「今度は俺かよ」 発信者は〈黒瀬悠斗〉。 自分自身からの着信だった。 誰も応答しないうちに端末は勝手にスピーカーへ切り替わり、悠斗本人の声で〈黒瀬悠斗。死亡予定時刻、午前三時〇二分〉と読み上げた。 悠斗の表情は一瞬だけ固まったものの、奈々香のように怯える代わりに、すぐ怒りが恐怖を押し潰したように腕へ力を込めた。「ふざけんな」 時刻は午前二時五十分を少し過ぎたところで、残り十二分しかない。 悠斗はスマートフォンの電源を切ろうとしたが、朔が記録を残すため止めると、端末を握ったまま橋の中央まで歩いていった。 そこで胡坐をかくように路面へ座り、両手を膝の上へ置く。 顔には、犯人の思いどおりには一歩も動かないという意地が浮かんでいた。「だったら俺は何もしない! 車にも乗らない。倉庫にも入らない。電話も取らない。何も食わないし飲まない。ここから一歩も動かなきゃ、罠に誘導しようがないだろ」 理屈だけなら間違っていなかった。 奈々香は恐怖から車で逃げようとし、美月は仲間を助けるため医療バッグを開くことを読まれていた。 本人が自然に取る行動の先へ殺害手段を置くのなら、その行動自体を止めればいい。 澪も一瞬は悠斗の考えがもっとも安全に思えたが、朔だけは時計から目を離さなかった。「座っ
午前一時五十二分。 蓮司の車内で奈々香の手のひらに残った赤い文字を撮影していたとき、美月のスマートフォンが短く震えた。 通信妨害が続く山中では、通常の回線を通した着信など成立しないはずだった。 それでも画面は着信表示へ切り替わり、発信者欄へ〈早乙女美月〉という名前が浮かんだ。 美月は端末を持ち上げたまま、すぐには応答しなかった。 奈々香のときと同じなら、触れなくても勝手に通話状態へ切り替わる。 朔がカメラを向け、蓮司が時刻を記録し、澪は眠気の消えた奈々香の肩へ手を添えた。 三度目の振動が終わったところで、予想どおり画面が自動的に切り替わった。『早乙女美月』 スピーカーから流れたのは、美月自身の声だった。 救急現場で必要事項を確認するときの、無駄な抑揚を削った落ち着いた声。 それが本人の名を読み上げ、数秒の間を置いて続ける。『死亡予定時刻、午前二時二十七分』 車内の時計は一時五十二分を示していた。 残り三十五分。 奈々香が息を呑み、美月の横顔を見た。 美月はすぐ端末を伏せたが、声も呼吸もほとんど乱れていなかった。「美月……」「大丈夫」 奈々香の死亡予告を二度経験したあとだから、仕組みそのものに慣れたわけではない。 それでも自分へ向けられた数字を聞いた瞬間、美月が恐怖より先に何を狙われているのか考え始めたことが、澪には表情から分かった。 奈々香が「怖くないの?」と訊くと、美月は一度だけ視線を時計へ戻し、自分の脈を確かめるように手首へ指を当てた。「怖いよ。でも、怖がったときにどう動くかまで読まれてるなら、取り乱した方が相手の予定どおりになる」 奈々香は何も言えず、自分の掌へ残った赤い文字を見た。 美月は一度深く息を吐き、車外へ出る前に自分の持ち物から確認すると言った。 犯人は奈々香の車とバッグへ罠を仕込み、本人が自然に選ぶ逃げ道を殺害手段へ変えていた。 ならば救急救命の知識を持つ美月に対しても、彼女が危機へ直面したとき最初に手を伸ばすものが狙われている可能性が高い。 美月が最初に床へ置いたのは医療バッグだった。 七刻女学校へ入る前から持ち歩き、透の死亡確認にも使ったものだ。 止血用品、包帯、消毒薬、体温計、簡易の検査器具、常備薬が細かく仕切られた内部へ収まっている。 美月自身が補充しているため、本来なら一本増
午前三時十三分まで、二時間を切っていた。 園村香苗を模したシリコン人形が置かれた軽自動車を警察へ引き渡すための連絡は、依然として電波妨害に阻まれている。 山道を徒歩で抜ければ通信圏まで戻れる可能性はあったが、奈々香の死亡予定時刻を告げた者が、その行動まで見越して罠を置いていない保証はない。 蓮司は車と倉庫で見つかった仕掛けを見回したあと、逃げるのではなく、相手が午前三時十三分に何を起こすつもりなのか先に探すと決めた。「予言じゃないなら、予定表だ」 悠斗が低く言った。 奈々香を一時十三分に殺すため、犯人はブレーキ配管を切り、倉庫へ落下装置を用意していた。 二つとも見破られたあと、予定時刻だけが三時十三分へ変更されたなら、新しい罠をすでに準備しているか、離れた場所から起動できる仕掛けへ切り替えた可能性が高い。 死亡予告を恐れるだけでは、犯人が用意した選択肢の中を動かされ続けることになる。 奈々香は蓮司の車の後部座席へ移された。 二台とも遠隔遮断器を外したため電源は復旧していたが、ブレーキへ細工された奈々香の車は動かせない。 蓮司の車も走らせず、橋と電話ボックス、山林のいずれからも距離を取り、周囲を四方向から確認できる路肩へ停めた。 美月が奈々香の隣に残り、窓とドアを内側から施錠し、何があっても一人で外へ出ないよう約束させた。「眠ったら駄目?」 奈々香は疲れ切った顔で訊いた。 二度も死亡時刻を告げられ、髪を根元から引き抜かれたうえ、橋の上で長時間緊張を続けている。 美月は無理に起き続ければ判断力が落ちるため、短時間眠ること自体は問題ないと答えた。 ただし自分が必ずそばにいて、呼吸と意識状態を確認し続けると伝える。 澪、朔、悠斗、蓮司の四人は、電話ボックス脇から山林へ伸びるケーブルを再び辿った。 小型無線中継器は倒木の裏へ防水ケースごと固定され、遠隔信号で公衆電話のベルや音声再生装置を動かせるようになっている。 先ほどは構造を確認するだけに留めていたが、今度は朔が書き込み防止用の機器を介し、ノートパソコンから保存領域の複製を始めた。 犯人へ接続を悟らせないため、通信機能そのものは切らず、記録だけを読み取る。「ログが残ってる」 朔の指が止まった。 端末には日時と送信先を示す記録が並び、今夜の着信だけでなく、数日前から試験信号
午前一時十四分へ変わる直前、欄干の外側から伸びた白い指が奈々香の髪へ触れた。 最初は濡れた枝が風に煽られたのだと、澪の目は理解を拒んだ。 だが指は五本あり、その先には掌があり、細い手首が暗い谷側へ続いていた。 橋の外には人間が立てる足場などない。 それでも女の手は奈々香の後頭部へ回り込み、長い髪を根元からまとめて掴んだ。「奈々香!」 澪は反射的に彼女の左腕を引いた。 ほとんど同時に奈々香の身体が欄干側へ強く引かれ、首が不自然に後ろへ反る。 奈々香は悲鳴を上げ、両手で自分の髪を押さえたが、見えない何かに身体ごと持っていかれるように靴底が路面を滑った。 朔が右腕を掴み、美月は奈々香の腰へ腕を回した。 悠斗と蓮司もすぐ駆け寄り、欄干から距離を取らせるよう全員で橋の中央へ引く。 澪の掌へ奈々香の爪が食い込み、朔の靴が濡れた路面で一度滑った。 髪を引く力は一瞬だけさらに強くなり、ぶちぶち、と嫌な音が奈々香の後頭部から聞こえた。 次の瞬間、力が消えた。 奈々香の身体は勢い余って橋の中央へ倒れ、澪も膝を路面へついた。 朔は奈々香を支えるより先に欄干へライトを向け、美月は倒れた彼女の頭を両腕で守る。 白い手はもうどこにもなかった。「動かないで。頭打った?」「髪……髪が……」 奈々香は泣きながら後頭部を押さえた。 美月はすぐ手袋をつけ、頭皮を照らして傷を確認する。 頭蓋部に打撲らしい腫れはないが、右後頭部だけ髪が不自然に薄くなり、赤くなった頭皮へ小さな出血点が幾つも並んでいた。 路面には髪が落ちていた。 十本や二十本ではない。 長い毛髪が数十本、束になって欄干近くへ散らばり、その多くに毛根がついている。 何かへ絡まった髪が自然に抜けたのではなく、強い力で根元から引き抜かれた痕跡だった。「誰かいた?」 悠斗が欄干から下を照らす。「いない」 蓮司も別角度から橋の側面を確認した。 コンクリート欄干の外側はほぼ垂直に落ち、下には十数メートル先の河原がある。 橋脚へ点検用の細い突起はあるものの、人間が片手でぶら下がりながら奈々香の髪を掴める位置ではない。 ロープを使えば可能性は残るが、欄干にも橋面にも固定具や擦れ跡は見当たらなかった。 朔はすぐに橋下へ続く斜面へライトを向けた。 先ほど透らしき人物が現れた河原にも人影はなく
〈死亡予定時刻、午前一時十三分〉という自分自身の声を聞いてから、奈々香はまともに呼吸ができなくなっていた。 美月が肩へ手を置いてゆっくり息を吐くよう促しても、彼女の視線はスマートフォンの時計へ吸いついたまま離れない。 午前零時三十二分。 残り四十一分という数字が一つ減っただけで、奈々香は喉を押さえ、橋を出ると言って車へ向かって歩き出した。「ここにいたら死ぬ。私、帰る」 悠斗が追いかけ、蓮司も橋を離れるなら六人一緒だと制した。 誰も奈々香を一人にするつもりはなく、死亡予告が犯人の誘導である可能性を考えれば、指定場所から逃げることさえ罠になり得る。 それでも奈々香は首を振り、今いる場所こそ殺されるために選ばれた場所だと言いながら、震える手で車のドアを開けた。 運転席へ座った奈々香がスタートボタンを押すと、セルモーターすら回らなかった。 警告灯だけが一度点き、すぐにメーター全体が暗くなる。 奈々香は「なんで」と呟きながら何度も始動を試したが、結果は同じだった。 朔がすぐに運転席から降ろし、車体へ触れる前に周囲を撮影する。 蓮司が自分の車でも始動を試したが、そちらも反応せず、二台ともほぼ同時に電気系統を失っていた。 悠斗がスマートフォンを取り出して警察へ連絡しようとすると、アンテナ表示は消え、圏外になっている。 美月、蓮司、澪の端末も同じで、数分前まで使えていた位置情報共有も切れていた。 山間部とはいえ、橋へ到着した時点では弱いながら通信できていたため、自然な電波状況の変化だけでは説明しにくかった。「妨害されてる」 朔は山林側へ隠されていた無線中継器とは別に、広い帯域へ雑音を流す小型の妨害装置がある可能性を指摘した。 車の始動不能まで同じ設備で起こせるとは限らないが、少なくとも外部との連絡を切り、六人を橋周辺へ留める意図は明確だった。 彼は自分の端末を操作しながら、通信が完全に失われた時刻と奈々香への死亡予告が流れた時刻を並べ、偶然にしては近すぎると呟いた。「じゃあ、さっきの電話は?」 奈々香が自分の端末を差し出した。「圏外になる前にかかってきたんでしょ。誰から?」 朔は着信履歴を開き、しばらく画面を見たあと眉を寄せた。 そこには白石奈々香からの着信が存在しなかった。 通話記録にも、不在着信にも、午前零時三十一分の発信は
午前零時十三分を過ぎても、河原に相馬透の姿が戻ることはなかった。 濡れた石の上には、彼が使っていた黒いヘッドフォンと、細長く伸びた磁気テープだけが残されている。 美月は手袋を二重にしてからヘッドフォンを拾い、朔が横で位置と状態を撮影した。 磁気テープには直接触れず、蓮司が長いピンセットで別の証拠袋へ収める。「これ、透のです」 美月はヘッドフォンの内側を懐中電灯で照らした。 左側のヘッドバンド裏に、浅い三本の傷が並んでいる。 高校時代、透が音響機材を机から落としたときについたもので、本人が気にせず使い続けていたため、美月も澪も何度か見たことがあった。 イヤーパッドの裂け目を白いテープで補修した跡まで一致しており、似た機種を用意しただけとは考えにくい。 澪は河原の暗がりを見た。 七刻女学校の放送室で透が倒れたあと、このヘッドフォンは彼の荷物と一緒にあったはずだった。 その遺体が消えた際に所持品まで持ち出されたのか、誰かが警察の封鎖前後に回収したのか、それともさらに別の経路で戻り橋へ運ばれたのか、判断できる材料はない。 確かなのは、死んだと確認した友人の私物が、今夜ここへ置かれていたことだけだった。「触った人間の痕跡が残ってるかもしれない。現場では最低限にする」 蓮司の言葉に、美月は頷いた。 だが朔はヘッドフォンを袋越しに見るうち、右側のハウジングだけわずかに厚みが違うことへ気づいた。 通常なら左右対称に近いはずの外装が、片側だけ一ミリほど浮いている。 落下で歪んだ可能性もあるが、螺子頭には一度開けたような細い傷があった。「中に何か入ってる」 悠斗が顔を寄せる。「ここで開けるのか?」「全部は開けない。外から確認できる範囲だけ」 朔は蓮司と警察へ連絡を入れ、現地保存を優先しながらも、現在進行中の危険につながる情報が隠されている可能性を説明した。 許可を得たうえで、車から精密工具を持ってきて右側の外装を慎重に外す。 内部の配線には大きな改造はなかったが、吸音材の裏へ、薄い黒色のメモリーカードがテープで固定されていた。「また記録媒体」 奈々香の声が小さくなる。 返し雛の内部から出てきた特殊規格のカードを思い出したのだろう。 朔は今回のものは一般的な小型規格で、八年前にも市販されていた形式だと説明した。 透は音響機器の