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第49話 死んだ透の声

Author: なつめ
last update publish date: 2026-09-06 13:44:08

 午前零時へ変わる直前、澪のスマートフォンと受話器のない公衆電話はほとんど同時に鳴り始めた。

 相馬透と表示された画面を握ったまま、澪は電話ボックスの中にある黒い電話機を見つめる。

 最初の三回は出ず、四回目だけ必ず出ろという澄花の指示が、どちらの電話を意味していたのかまでは書かれていなかった。

 けれど常世荘の祭壇から現れた黒い受話器が、この電話機から十三年前に失われたものだと分かっている以上、答えは目の前にあるように思えた。

「戻すのか」

 蓮司が証拠袋を持ったまま訊いた。

 澪が頷くと、朔は公衆電話の内部へ新たな電流が流れていないか確認し、美月は橋の周囲へ目を配る。

 山林に隠された装置からベルを鳴らせる仕掛けは見つけたが、受話器を接続したとき何が起きるかまでは分からない。

 それでも四回目の着信が終われば、相手が次の機会を与える保証はなかった。

 蓮司は手袋をつけ、黒い受話器を袋から取り出した。

 十三年前に引きちぎられたコードの断面と、電話機から垂れ下がる接続部は不自然なほどぴたりと合った。

 完全に断線しているため本来なら通話回路は成立しないはずだが、二つを近づけた瞬間、電話機のベルが止まり、代わりに受話器の内部から小さな電子音が一度だけ鳴った。

「つながってない」

 朔が接続部を見た。

「物理的には切れたままだ」

「それでも出る」

 澪は受話器を取った。

 耳へ押し当てると、最初はざらついた雑音しか聞こえない。

 次に、風が細い隙間を通り抜ける音と、水の流れる低い響きが重なった。

「もしもし」

 返事はない。

「透?」

 橋の下を流れる川の音と、受話器の奥から聞こえる水音が奇妙に重なった。

 ほんのわずかに時間がずれており、同じ場所の音を別の位置から聞いているようでもある。

 澪は耳を澄ませた。

『澪』

 心臓が強く脈打った。

 相馬透の声。

 七刻女学校の放送室で最後に聞いたものと同じ、少し低く、息を深く吸わずに話す癖のある声だった。

 常世荘へかかってきた電話よりも近く、録音を再生しているような平坦さはない。

「透なの?」

『そう』

「本当に?」

『そうだよ』

 答える間が自然だった。

 澪が問い終えるより先に用意されていた音声を流しているのではなく、こちらの言葉を聞いてから返しているように思える。

 朔は澪の横から受話器へ向けて録音機を近づけ、蓮司は山林側の無線中継器へ接続が発生していないか端末で確認した。

「どこにいるの?」

 透は答えなかった。

「透、聞こえてる?」

『聞こえてる』

「じゃあ、どこ?」

 数秒の沈黙。

『橋の下』

 蓮司と朔が同時に動いた。

 蓮司は欄干へ走り、朔は強力な懐中電灯を持って橋の下へ続く斜面へ光を向ける。

 美月と悠斗も後へ続いたが、奈々香だけは澪のそばを離れず、電話ボックスの外から橋と澪を交互に見ていた。

 斜面には濡れた枯れ葉と低木が密集し、その奥に細い獣道のような下り道がある。

 川原まで十数メートルほど高低差があり、夜間に足を滑らせれば簡単には戻れない。

 ライトを振っても、人影はすぐには見つからなかった。

「透、生きてるの?」

 澪は訊いた。

 返事が遅れた。

『分からない』

 その一言に、背中が冷えた。

「何が分からないの」

『生きてるかどうか』

「今、話してるじゃない」

『目も開いてる』

 透の声は落ち着いている。

 だからこそ、内容だけが異常に聞こえた。

『話せる。聞こえる。でも、自分の体がどこにあるか分からない』

「どういう意味?」

『手を動かしても、動いた感じがしない。足もないみたいだ。なのに歩いた記憶はある』

「怪我してるの?」

『分からない』

 澪は放送室の床に横たわった透の首を思い出した。

 磁気テープが深く食い込み、美月が何度呼んでも反応しなかった。

 あの身体こそ透自身だったはずなのに、電話の向こうにいる透は自分の肉体がどこにあるか分からないと言っている。

 受話器の奥で、突然機械音が鳴った。

 ぎゅる、と磁気テープを高速で巻き戻すような音。

 透の呼吸が途切れる。

「透?」

『澪』

 声が低くなった。

『俺を探すな』

「でも橋の下にいるんでしょ?」

『いる』

「だったら――」

『でも、俺じゃないのもいる』

 澪の指が受話器へ食い込んだ。

「何がいるの?」

『俺と同じ顔』

 雑音が強くなった。

『俺と同じ声。俺と同じ服。あれが先に見つかったら――』

 言葉が途切れる。

 その瞬間。

「澪!」

 橋の下から声がした。

 電話越しではない。

 夜気を震わせて、はっきり耳へ届いた。

 澪は受話器を持ったまま電話ボックスを飛び出した。

 奈々香も後を追い、六人が欄干へ集まる。

 朔の懐中電灯が斜面を滑り、草を照らし、川原へ落ちた。

 一人の男が立っていた。

 相馬透だった。

 澪の喉が詰まる。

 七刻女学校へ入った夜と同じ黒いジャケット。

 灰色のシャツ。

 濃いパンツ。

 首元には、磁気テープが巻きついていた位置に黒紫色の痕が一周している。

 靴は履いておらず、裸足の足首まで川の水に濡れていた。

「透……」

 河原の男が顔を上げた。

 ライトが目へ入っても眩しそうにしない。

 顔色は青白く、髪から水が落ちている。

 それでも間違えるはずのない顔だった。

「助けて」

 現実の透が言った。

 美月が欄干から身を乗り出す。

「相馬!」

「寒い」

 透は両腕を自分の身体へ回した。

「ここから出られない」

「待って。今行く」

 美月は救急鞄を背負い直し、斜面へ下りようとした。

 死んだはずだという判断より先に、目の前で助けを求めている人間へ身体が動いていた。

 悠斗も足場を照らし、蓮司が安全な下り口を探す。

 澪の手にある受話器から、激しい雑音が鳴った。

『触るな!』

 電話越しの透が叫んだ。

 美月の足が止まる。

 ほぼ同時に。

「触るな!」

 河原にいる透も叫んだ。

 同じ声。

 同じ高さ。

 同じ息継ぎ。

 一文字のずれもなく、二つの声が完全に重なった。

 六人は動けなかった。

 河原の透は怯えた顔で自分の両腕を抱き、受話器の中の透は荒い呼吸を続けている。

 どちらが先に喋ったのかさえ判別できないほど、発声の瞬間は一致していた。

「透、どっちなの」

 澪が訊いた。

 河原の透が口を開く。

『分からない』

 受話器からも同時に答えが聞こえた。

 現実の口の動きと、電話の声が完全に一致している。

「澪」

 河原の透が一歩前へ出る。

 裸足が浅い水へ入り、波紋が広がった。

「帰りたい」

 澪は欄干を握った。

 八年前から何度も聞いた友人の声だった。

 機材について話すときの淡々とした調子も、困ったときに眉を僅かに寄せる癖も、本人そのものに見える。

 もし生きていたなら助けたい。

 もし怪我をしているなら、美月へ診てもらわなければならない。

 けれど、透自身が言った。

 触るな。

「そこで待って」

 美月が震える声を抑えた。

「こっちから行く。でも、あなたには触れない。自分で斜面まで歩ける?」

「無理」

「どうして?」

 河原の透は自分の足元を見た。

「ここから出ると、俺じゃなくなる」

 奈々香が小さく息を吸う。

 朔は透へライトを固定したまま、別のカメラで河原全体を撮影していた。

 画面上にも透は映っている。

 七刻女学校で遺体の顔だけがノイズに覆われたときとは違い、今度は輪郭も服も表情も鮮明だった。

「透」

 朔が呼ぶ。

「俺が誰か分かるか」

「神代」

「八年前、俺とお前だけが使った識別音の周波数は?」

 透はすぐに答えた。

 数字は澪には意味が分からなかったが、朔の表情が変わった。

「合ってる?」

 悠斗が訊く。

「ああ」

「じゃあ本人じゃないか」

「その情報を持ってる人間は、透だけじゃない」

 朔は短く返した。

 七刻女学校の音源を持つ人物、透の機材や記録へアクセスした人物なら知る方法はある。

 見た目と声だけで本人と断定するなという意味だった。

 そのとき、電話ボックスの内部で照明が消えた。

 続いて橋の街灯が一つずつ落ちる。

 朔の懐中電灯まで一瞬だけ暗くなった。

「電源落ちた!」

 悠斗が叫ぶ。

 完全な闇は一秒にも満たなかった。

 非常用の手持ちライトが再び点く。

 川原へ光を向ける。

 透はいなかった。

「透!」

 澪が身を乗り出す。

 さっきまで男が立っていた浅瀬には、足跡らしい水の乱れだけが残っている。

 上流にも下流にも人影はなく、走って逃げられる距離ではなかった。

 美月と蓮司が安全を確認しながら斜面を下り、朔と悠斗も続いた。

 澪と奈々香は橋上に残り、四人のライトが川原を往復するのを見守る。

 数分もしないうちに、美月が何かを見つけてしゃがみ込んだ。

「ある」

 河原の石の間に、黒いヘッドフォンが落ちていた。

 透が普段使っていたものだった。

 片側のイヤーパッドに小さな裂け目があり、ケーブルの根元へ白いテープが巻かれている。

 七刻女学校へ持ち込んだ機材写真にも同じ補修跡が残っていた。

 美月は触れず、写真だけ撮った。

「人はいない」

 蓮司が周囲を照らす。

 川原には濡れた裸足の跡が数歩分あるが、途中で突然途切れている。

 水へ入った形跡も、斜面へ戻った痕跡もない。

 澪は受話器を耳へ戻した。

「透?」

 通話は切れていた。

 無音。

「聞こえる?」

 返事はない。

 すると、受話器の奥で短い電子音が鳴った。

 女性の声が流れる。

 感情のない、機械的な読み上げ音声だった。

『相馬透』

 澪は息を止める。

『死亡時刻、午前零時十三分』

 美月が河原から腕時計を見た。

 その表情が凍りついた。

「何?」

 悠斗が訊く。

 美月はすぐに答えなかった。

 七刻女学校の放送室へ辿り着いた夜、透の死亡を確認した時刻を自分の医療記録用メモへ残していた。

 警察にも同じ時刻を伝えている。

「午前零時十三分」

 美月の声が掠れた。

「七刻女学校で、私が透の死亡を確認した時刻」

 十三分。

 澪は時計を見る。

 現在時刻は午前零時十二分だった。

 まだ一分早い。

「でも、今は十二分」

 奈々香が言った。

 その瞬間、受話器の中でカセットテープが回る音が始まった。

 巻き戻しではなく、古い録音機が再生へ切り替わるときの低い機械音だった。

 澪のスマートフォンの時計が午前零時十三分へ変わる。

 同時に橋の下から、磁気テープが床を引きずられるような音が聞こえた。

 美月がライトを向ける。

 透のヘッドフォンの横に、さっきまでなかった黒い磁気テープが一本、濡れた石の上をゆっくり這っていた。

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